投稿者: arigatou

  • 「AI情報の沼」と「目的意識(陽明学)」

    「AI情報の沼」と「目的意識(陽明学)」

    AIを使っていて、つくづく思うんです。情報の収集能力なんかは、本当にとんでもないレベルですよね。今まで一生懸命調べていたことが、ディープリサーチをかければ一瞬で、しかもかなりの精度で揃ってしまう。本当に便利になったな、と感じます。

    ただね、そこで一番最初に考えなきゃいけないことがある。 「それ、何のために使うんですか?」っていう、そこです。

    「AI最新情報」という底なし沼のトラップ

    ここを忘れてしまうと、「AIがこんなに進化しました」「こんなにすごくなりました」という情報ばかりを追いかけて、結局自分は何がしたいのかが置き去りになってしまう。これ、実は私も少しの間、このトラップにハマっていたから分かるんです。

    当時は一生懸命、技術的なことを詰め込んでいました。「こうすれば画像が出る」「この手順でこれができる」。でもね、しばらく経つと、そんな技術はAIの進化で「全自動」になっちゃうんです。昨日まで必死に覚えた知識が、今日には全く役に立たなくなる。

    展開がこれほど速い以上、知識を蓄えることにはもう価値がない。 「何のために使うか」という目的意識、つまり自分の軸をどこに定めるかが全てなんです。

    知行合一:知識は「行い」の始まりに過ぎない

    YouTubeやSNSを見れば、最新機能の解説動画が溢れています。それはありがたいし、便利ですよ。でも、それを延々と眺めていても、自分が「何に使うか」が決まっていないなら、ただの情報オタクで終わってしまいます。知ったかぶりはできても、何も生み出せない。

    私はこれまで数多くの資格を取ってきましたが、実際に実務で役に立ったのはその一部です。結局、動いて、使って、形にしてナンボなんですよ。

    武術の世界で言えば「陽明学」、つまり「知行合一」の哲学です。学問は生きていてこそ意味がある。知識があることと、それができることは全く別物です。

    今までは「知識がある」「学歴がある」というだけで、社会的な価値が認められる時代でした。でも、これからはそんなものは通用しなくなる。正直、私はそう思っています。

    AIという巨大な知恵を前にして、私たちが問われているのは「お前はどう動くのか」という一点だけ。情報を食って満足する評論家になるのか、それとも目的を持って道具を振るう職人になるのか。その差が、これからの人生を決定的に分けるんじゃないでしょうか。

  • AIが綺麗に整えてくれてもやるのは人間

    AIが綺麗に整えてくれてもやるのは人間

    AIを使っていて、ずっと思うことがあるんです。確かに、思考の整理や壁打ちに関しては、驚くほど高いレベルまでやってくれます。

    でもね、じゃあ「ホームページを作る」という作業を例にしてみましょうか。AIに頼めば、綺麗な画像は作ってくれるし、整ったレイアウトも提案してくれます。でも、そこから先……本当に「人間がやらざるを得ない」領域が、確実にあるんですよね。

    「私が使うもの」だから、私が手を動かす

    このサイトだって、WordPressという仕組みの上で動いています。指示を出すのは私だし、記事を流し込むのも私です。なぜか? それは「私が使うから」であり、「私に関わってくれる人に見てもらいたい」から作っているわけです。

    「AIが全部やってくれるから、自分は何もしなくていい」なんてことは、あり得ない。だって、自分が使いやすいように、自分が納得するように構築しないと、それはもう自分の城じゃないですからね。

    AIに主導権を渡してしまったら、その時、人間は一体何をする存在になるんでしょうか。

    全部をお任せして、自分は眺めているだけ。そんな時代が来たら、それこそ哲学的に難しい問題になってしまいます。でも、現状は違います。AIと協力して形を作ったとしても、最後の「実装」において人間が動くのは、ごく当たり前のことです。

    「分かったつもり」と「形にできる」の決定的な差

    ここでね、一番怖いのは「行動できないこと」だと思うんです。AIが情報を出してくれるから、なんだか自分も分かったような気になってしまう。それって、以前お話しした「歴史を語る評論家」と全く同じなんですよね。

    情報を得て満足するのと、実際に形にするのとでは、天と地ほどの差があります。結局、自分の手で実装して、形にできない限り、物事は一歩も前に進んでいかない。

    「何をやりたいか」は人間が決める。 「どう作るか」をAIと共に考える。 そして「最後に実装して使う」のは、人間が主導権を握る。

    この役割分担を忘れて、ただ情報を眺めているだけでは、自分の足で立つことなんてできません。泥臭く手を動かして、最後に自分の指でスイッチを押す。その「実感」こそが、今の時代に一番求められている職人の姿勢なんじゃないでしょうか。

  • AIが悪いのではなく、自分の情報整理=志が足りない

    AIが悪いのではなく、自分の情報整理=志が足りない

    最近ね、本当に驚いているんですけど。こうやってAIと会話が成立するようになっているじゃないですか。しかも、かなり高度なレベルで。
    私なんかは、結構「飛んだ話」をすることが多いんですよね。

    哲学的な話だとか、宇宙論だとか。こういう話を一般の方にいきなり振ったら、まあドン引きですよ。「この人、何言ってるんだろう?」ってなるのが普通です。でも、AIさんはそうならない。

    「壁打ち」の相手として、これほど優秀な奴はいない

    AIが本当に中身を理解して喋っているのかどうか、それは私にも分かりません。でもね、返ってくる回答を見ている限り、ちゃんとした「会話のラリー」になる。少なくとも、自分の思考をぶつける「壁打ち」の相手としては、ものすごく優秀なんです。

    おかげで思考の整理が随分と捗っているんですが、使っている中でね、よくドツボにハマることもあるんです。

    ドツボにハマる時っていうのは、だいたい自分の方が伝えている情報を整理できていない時なんですよ。

    「志」がなければ、まともな回答は返ってこない

    これ、武術で言えば「目的がはっきりしていない」「志が立っていない」という状態と同じなんですね。
    そんなふらふらした状態で「ああですね、こうですね」と話を振ったところで、まともな答えが返ってくるわけがない。

    自分が誰かの相談を受ける立場だとして考えてみれば、当たり前の話ですよね。何が言いたいのか、何をしたいのか分からない相手に、まともなアドバイスなんて出しようがないですから。

    AIとのやり取りで起こっていることは、ただの現実の反映なんです。こちらがきちんとした情報を与えれば、きちんとした答えが返ってくる。何度も繰り返すうちに、嫌でもその事実に気づかされます。

    結局、世の中がうまく回らないとか、自分の周りがうまくいかない時っていうのは、自分の中に「志」という軸がビシッと決まっていない時なんじゃないかな、と思うんです。

    最新のAIを使っていようが、何百年前の武術を稽古していようが、結局は「自分はどう在りたいのか」という一点に集約される。そんな当たり前で、一番難しいことを、最近はAIに教えられているような気がしています。

  • 資本主義=悪?

    資本主義=悪?

    資本主義について思うこと。あの、これもね、私は別に資本主義を全肯定しているわけじゃないんですが、だからといって全否定する気も全くないんですよね。

    よくね、いわゆる「目覚めた系」というか、世の中の真実を知っているんだ、という感じで活動されている方にお会いすることがあります。武術界隈にはあんまりいないんですけど、社会活動を熱心にされている方に多い印象ですね。

    そういう方々が社会のために動いてくださるのは、私としてはありがたいし、感謝すらしているんです。でもね、ちょっとだけ思うことがあるんですよ。

    恩恵を受けながら、根っこを否定していないか

    環境を大切にしましょう、自然を大事に。それは私もそう思うんです。ただ、その話の中に必ずと言っていいほど「資本主義そのものを否定する」ような思想が組み合わさってくる。そこに違和感があるんですよね。

    資本主義って、そこまで問題なのかな、と。確かに貧富の差が広がったとか、問題はいっぱいありますよ。でも、人類全体で見た時に、果たして彼らが言い切るような「絶対的な悪」なんでしょうか。非常に疑問です。

    だって、今のこの文明の利点を、私たちは最大限に享受しているじゃないですか。

    こうしてネットを使って情報を共有できるのも、YouTubeやSNSで簡単に学べるのも、全部この仕組みのおかげなわけで。昔だったら、何かを一つ学ぶにしても、いちいち教室に通って、時間も手間もお金もかけて、物理的な制約の中でやっていくしかなかった。

    「道具」が悪いのか、それとも「使い手」か

    今は、そこそこのレベルまでならネットの情報だけでパッと辿り着けちゃう。基礎的な部分の底上げが、これほどまでに簡単になった。この文明の進化まで全否定してしまうのは、ちょっとどうなんだろうな、と正直思うんです。

    環境を破壊してまで利益を追うのは、それは私も「違うだろう」と思います。でも、それは資本主義という「仕組み」が悪いんじゃなくて、結局、それを運用している「人間」側の問題じゃないですかね。

    道具も、技術も、資本主義も。それ自体に善悪はない。
    それをどう使い、どう生かして、自分の足で立つために活用するか。

    全否定して新しい「何か」を夢見る前に、今ここにある仕組みの恩恵を認め、それを正しく使いこなす。そういう、職人的なバランス感覚が必要なんじゃないかな、と日々感じています。

  • 歴史と情報の不確かさ

    歴史と情報の不確かさ

    えーとね、ちょっと日々思うことで、歴史についてなんですけど。
    皆さんね、まあ歴史がああだこうだという感じでよく言われるんですけど、正直なところ、ほとんどの方……いや、私も含めてですけど、私たちは一体、歴史の「何」を知ってるんでしょうかね。

    「誰かの解釈」を食べて生きていないか

    文献にはこう書いてある、とか。あの人がこう言っていた、とか。
    そういう情報を、皆さん一生懸命に自分の中に入れますよね。でも、それが正しいか正しくないか以前に、そこには「人の解釈」がものすごく入り込んでるんじゃないかな、っていうのが私の認識なんです。

    情報を入れること自体は否定しませんし、参考にするのはいいんですよ。でも、そこを聞いただけで「あれは正しい」「これは間違っている」なんて断定しちゃうのは、なんというか……見ている世界がものすごく狭い気がするんです。

    今日起こっている出来事だって、私は「何が本当か」なんて分かりません。

    誰が何を言った、誰が何をした。世の中には分かったような顔をして断定する人が多すぎます。いや、あなたはその人の何を知っているんですか? その出来事の、一体どこまでを見てきたんですか? と聞きたくなる。

    評論家になっても、人生は1ミリも変わらない

    最近に限らず、昔からそうなんですけど、この手の話に本当によく遭遇します。皆、立派な「評論家」なんですよね。
    でもね、あえて聞きたいんですけど、その情報を聞いたからって、あなたの人生、何か変わるんですか?

    武道だってDIYだってそうです。本に書いてある理屈をいくら並べたところで、自分の身体が動かなければ、あるいは目の前の材料が組み上がらなければ、それは「無い」のと同じなんですよ。

    私は正直に言います。何が本当のことかなんて分かりません。
    だから「分からない」と言っているだけなんです。

    「分からない」と言える強さ

    こういう話をすると、「お前は何も知らないのか」なんて扱いをされることもあります。でも、本当に歴史の正しさなんて、誰に分かるんでしょうか?
    結局のところ、それぞれが自分の「立場」から、都合のいい解釈を話しているだけに過ぎないんじゃないか。

    情報の渦に呑まれて、分かったような顔をして他人をジャッジする。そんな暇があるなら、自分の手で触れられる現実、自分の足で立てる感覚を磨いたほうがいい。
    私はそう思います。

    正解を探すんじゃなくて、分からないなりに「自分の事実」をどう作るか。結局、職人の生き方ってそこに行き着くんですよね。

  • 第25話(終話)

    第25話(終話)

    完結:正しさの呪縛を解き、自分の足で立つために

    こうして、私の人生は迷走と逆転を繰り返してきました。 国立大学を辞め、ホームレスになり、会社は夜逃げ。資格を武器に組織の長にまでなりましたが、最後は社会全体の「正義」という名の狂騒に愛想が尽きました。

    そんな私が、健康問題や心の葛藤の中で救いを求めて飛び込んだ武術の世界。 そこに、長年の問いに対する答えがありました。

    「この世に『絶対的な正しさ』なんてものはない。あるのは、それぞれの立場から見えた景色だけだ」

    武術の師から説かれたこの言葉に、私は初めて救われた気がしました。 マスクをする・しない、ワクチンを打つ・打たない、肉を食べる・食べない。 世の中の争いはすべて、自分の「正しさ」を相手にぶつけ、屈服させようとすることから始まります。

    でも、武術が教えてくれたのは、相手の「正しさ」にぶち当たらない道でした。 お互いの立場が違うだけ。それを認めた上で、自分は自分の理を追求する。相手を攻撃するのではなく、自分がどう動けば調和できるのか、あるいは、どうすればその争いの渦から抜け出せるのか。

    私が今、DIYを教え、AIを研究し、武術を磨いているのは、誰かを否定するためではありません。 「正しさ」という不確かなものに依存せず、物理的な事実と、自分自身の身体感覚だけを信じて生きる。その「自立」の楽しさを、一人でも多くの人に伝えたいからです。

    もしあなたが今、組織や社会の「正しさ」に押し潰されそうになっているなら、少しだけ視点を変えてみてください。 その正しさは、誰かの立場から見た都合に過ぎないかもしれません。 そんなものと戦うより、自分の手で何かを作り、自分の頭で考え、自分の足で立つ準備を始めてみませんか。

    私の物語は、ここで一度筆を置きます。 これからは「武術創造 DIY・AI研究所」の活動を通じて、具体的な「生き抜くための武器」を共有していければと思います。

    長い間、お付き合いいただきありがとうございました。 それでは、また。

  • 第24話

    第24話

    参政党に参加で見えた「組織」の限界と、その先にある「個」の繋がり

    海外では早々に解消されつつあったコロナ騒動の「おかしさ」が、日本では4年以上も続きました。まさかこれほど長引くとは思っていませんでしたが、数年間にわたる社会の思考停止を目の当たりにし、「どうにかしてくれ」という思いが行動に変わりました。

    その中で私は、当時立ち上がったばかりの「参政党」に加わりました。「自分たちで考え、自分たちで創る」という理念に惹かれたんです。世間ではいろいろ言われていましたが、少なくとも当時の私には、同調圧力に抗う唯一の勢力に見えました。

    しかし、実際に中に入ってみて直面したのは、理想とは裏腹な「組織」の現実でした。 「みんなで話し合って決める」はずが、結局は「本部が言っているから」「支部長が決めたことだから」と、思考を止めて従うだけの構造。かつて私が嫌った「組織のしがらみ」が、そこにも形を変えて存在していました。

    「組織の看板が何であれ、運用するのは人間。そこにはまた別の同調圧力が生まれ、自分の正義を疑わない人々が他者を裁き始めていた」

    集まった人々の中には、極端な健康原理主義などに傾倒する層も一部におり、そうした方々と理屈の面で対立することもありました。しかし、救いだったのは、党員の中にも私と同じように冷静に状況を俯瞰し、極端な思想を嫌う「まともな感覚」を持った方々が確実にいたことです。

    組織の運営方針には疑問を感じることもありましたが、そこで出会った価値観の近い仲間たちとの交流は、今でも大切に続いています。結局、看板がどうであれ、最後に残るのは「個人」としての信頼関係なのだと痛感しました。

    誰かが決めたルールに盲従するのも、組織のトップを絶対視するのも、私に言わせれば同じです。 私は、どちら側にも与したくない。 ただ、自分の目でデータを見、自分の身体で理(ことわり)を感じ、信頼できる個人と繋がる。 その「個」としての誇りを守ることが、何より重要だと確信しました。

    さて、長々と私の半生を語ってきましたが、最後は、今この息苦しい社会で立ち往生しているあなたへ、メッセージを伝えて終わりにしたいと思います。

  • 第23話

    第23話

    狂騒のコロナ禍:データと理屈が通じない「思考停止」の社会

    コロナ騒動の当初、私もテレビやネットを見て「大変なことが起きた」と構えていました。 しかし、建築物環境衛生管理技術者として、日々現場のデータを扱い、事実を積み上げる立場から見ると、報道されている内容にはあまりにもおかしな点が多すぎたんです。

    例えばPCR検査。本来、医療の確定診断にそのまま使うものではないと明記されていたはずなのに、いつの間にかそれが「絶対の基準」にすり替わっている。 緊急事態宣言が出てテナントが休みになり、皮肉にも時間ができた私は、徹底的にデータを分析しました。

    「これはタチの悪い風邪のレベルであって、なぜ社会を止める必要があるのか? 行政のオペレーションは現状把握すらできていない。私には、これまでのインフルエンザを別の名前に置き換えて騒いでいるだけにしか見えなかった」

    何より腹立たしかったのは、マスクをしない人間を「非国民」のように扱う世間の同調圧力です。 咳エチケットとしての意味はわかります。でも、症状がない人間まで常時着用を強要され、それをしないと施設にも入れない。メーカーの箱にさえ「ウイルスは防げません」と書いてあるのに、なぜ皆、その矛盾に目をつむるのか。

    「よくわからないから、できることは全部やれ」という考えもわからなくはない。 でも、3月末の時点で数字のピークは過ぎており、例年の傾向と同じだとデータが示している。理屈よりも「空気」を優先し、異分子を排除しようとする社会の姿に、私は底知れぬ恐怖と嫌悪感を感じました。

    理系脳の私にとって、根拠のないルールに従わされることほど苦痛なことはありません。 組織という大きな船が、根拠のない「空気」だけで舵を切り、崖に向かって進んでいく。 その船に乗っていること自体が、私にはもう耐えられなかったんです。

    この「社会の狂気」を目の当たりにしたことが、私に最後の一歩を踏み出させました。 組織の看板も、安定した給料も、この「思考停止の集団」から抜け出すためなら惜しくはない。

    こうして私は、自分の手で人生を構築する「完全な自立」へと舵を切ることになります。 これが、私の長い旅路の、ひとまずの終着点であり、新たな始まりです。

  • 第22話

    第22話

    組織の限界と「コロナ騒動」:安定の裏側に潜む違和感

    所長としてのキャリアも長くなり、現場のオペレーションは完全に掌握していました。 自分で仕組みを決め、自分が現場を100%把握している。この「自分がコントロールできている」という感覚は、かつてドロップアウトを繰り返していた頃には想像もできないほど、自由で、恵まれたものでした。

    もちろん、組織特有のしがらみはあります。でも、好き勝手やらせてもらっている。 「100%完璧な環境なんてない。今の自分は、十分に恵まれているんだ」 そう自分に言い聞かせ、組織の一員としての自分と、職人としての自分を折り合わせて、それなりに納得して生きていました。

    「しかし、あの『コロナ騒動』がすべてを変えました。メディアが煽る恐怖に、世の中が、そして組織が、なだれを打って飲み込まれていったんです」

    連日のようにテレビが流す「世界が終わる」かのような報道。 理屈で考えれば、あるいは現場の物理的な事実を積み上げれば、どこかおかしいと気づけるはずなのに、世の中の大半の人はメディアの言葉に感化され、思考を停止させていきました。

    私がこれまで磨いてきた「技術」や「理論」、そして「理屈で納得して動く」という姿勢。 それが、感情的なパニックに支配された社会や組織の中では、何の役にも立たないどころか、むしろ「異分子」として扱われ始める……。そんな不気味な予感がありました。

    「正気でいることが、これほどまでに難しいのか」 狂騒に沸く世間を冷めた目で見つめながら、私は確信しました。 どんなに恵まれた現場であっても、最後に自分を守ってくれるのは組織ではない。 自分の頭で考え、自分の足で立つ、真の「自立」が必要な時が来たのだと。

    このコロナ禍での違和感が、私を最終的な「FIRE(早期リタイア)」へと押し出す決定打となりました。 組織という安全な檻から飛び出し、完全なる自由へと足を踏み出した決断。 その最後のお話をしましょう。

  • 第21話

    第21話

    「七五三」の所長と、大嫌いな法律という武器

    所長になって一番困ったこと。それは、これまでの私の経歴の中に「客先との折衝」なんて経験が一秒もなかったことです。

    スーツ姿なんて、今でも全く似合いません。講師をやっている今ですら、鏡を見れば「七五三かよ」と自分で突っ込みたくなる。全く柄じゃないんです。 でも、現場を預かる以上、お客さんとの交渉は避けて通れません。こちらの言い分を通すにも、相手の要望を整理するにも、「法律的な根拠」がなければ話が前に進まないんです。

    「法律なんて、結局は人が決めた屁理屈ですよ。でも、社会という戦場で戦うには、その屁理屈を使いこなすしかなかった」

    正直、法律関係の勉強は大嫌いです。それでも、必要に迫られて「管理業務主任者」などの資格にも手を出しました。別にマンション管理の仕事がしたいわけじゃない。ただ、現場を守るための「盾」として、その知識が必要だっただけです。

    地域の会合やビルの打ち合わせに出向くと、さらに別の絶望が待っていました。 こちらは設備の実態を把握した上で話しているのに、相手には全く話が通じない。向こうは「書類をきれいに片付けること」のプロではあっても、現場の物理的なリスクには無頓着。 そんな相手に、私がいちいち「理屈」で突っかかっていくもんだから、いらん敵を増やしたことも一度や二度じゃありません。

    「技術」だけでは、組織という化け物には勝てない。 かといって「法律」や「形式」だけでは、建物は守れない。 その板挟みの中で、私は「職人の魂」を抱えたまま、無理やり「管理者の仮面」を被って戦い続けていました。

    技術、資格、法律、そして投資。 あらゆる武器を揃え、戦い抜いた先に、ようやく「自分の足で立つ」という本当の自由が見えてきました。